天使のいない夜
| 優雅な室内だった。調度品も家具もかなり高級な、だがどこか艶めいた雰囲気さえ感じさせるものが並び、明らかに女性の寝室だとわかる。 だが、その寝台からゆっくりと身を起こし、慣れた手つきで身支度を始めたのは男だった。よく鍛えられた均整の取れた肢体にシャツを羽織り、情事で乱れた黒髪を手櫛でざっと整える。興ざめになるほど慌ただしくもないが、「帰る」という意志をとどめられると女が誤解するほど未練がましくもない。 そんな男を見上げながら、寝台の中で余韻を楽しんでいた女が声をかけた。 「ねえ、ロイ」 どこか楽しげな声だった。 「このあいだ、あなたの天使さんに会ったわ」 「天使？」 その形容に、シャツのボタンを留めていたロイ・マスタングは思わず振り向いた。 「コーディリア。誰のことだね、それは」 コーディリアと呼ばれた女は、くすくす笑うと身を起こした。掛布がすべりおちて、一点のたるみもない見事な肢体があらわになる。 それが大事な商売道具の一つとはいえ、よく保たせているものだ、とマスタングは思っている。 コーディリアと呼ばれているこの女の本名も姓も誰も知らない。その職業は、高級娼婦だ。イーストシティの夜ごとの宴を飾る大輪の花の一人。娼婦とはいうが、美貌と肉体だけでは務まらない。宴の客と対等に会話を交わせるだけの教養、才気も必要とされる。 そんな彼女が、東方司令部司令官のロイ・マスタングとつきあうようになってから、もう二年近くになる。最初に紹介されたのは、どこぞの有力者のパーティだったか、二人とも覚えていない。 いまでは情人というより、情事こみの女友達というところだろう。一夜限りの女たちよりよほど、マスタングにとっては貴重な存在ではあるのだが。 詰問するような男の視線に、コーディリアは笑うと片目を閉じた。 「ほら、たまにあなたと一緒にいるじゃない。金髪に金の目の可愛い小さい坊や」 そこまでいわれれば、マスタングにもわかった。 「ああ。鋼のか」 納得してボタンを留め直すと、首をひねる。 「しかし、あれのどこが、天使かね？ 黙って立っていればそう見えないこともないが、そんなことはまずありえない。一言でも口を開けばとんでもない悪口雑言の嵐だ。そのうえ手も早いときている」 「知っているわよ」 コーディリアはにっこりと笑った。 「おまけにとんでもなく強い。大の男四人を、あっというまにのしてくれたわ」 その言葉に、マスタングは片目だけで女の顔を睨んだ。 「何があったのかね？」 「ちょっとね。しつこい男に絡まれていたところを助けてもらったの」 そう答えると、女は男の顔をのぞき込んだ。 「驚かないのね」 「あたりまえだ」 マスタングは肩をすくめた。 「いくら見かけは可愛らしく見えても、あれは国家錬金術師だぞ。同じ錬金術師でなければ、どんな大男が相手だろうと無敵だ」 「そうね。でも片腕片足が機械鎧とは知らなかったわ」 マスタングは眉を上げた。 エドワードの機械鎧は、一目見ただけではわからない。いつもは、長いズボンと長袖と手袋でその上を覆っているからだ。いちいち聞かれるのも気にされるのも面倒だからだと、本人はいっていた。 「……どうして知っている？」 「助けてもらったお礼に、この部屋にご招待したもの」 すました女の答えに、マスタングはため息をついた。 この場合、コーディリアの『ご招待』の意味は一つしかない。 「……前途ある純情な青少年に、悪い遊びを教えないでほしいのだが？」 マスタングのささやかな苦情にも、コーディリアはすましたものだった。 「悪い女にひっかかる前に、免疫ができてよかったじゃない」 あまりにも堂々とした言い分に、マスタングはとうとう苦笑した。 「確かに、君の手練手管に比べれば、そのへんの女たちなど可愛らしいものだが」 「お褒めの言葉ととらせてもらうわ。でも」 その声が、不意にかげりを帯びた。 「悪い遊びにひっかかるようなただの子供なら、天使と呼びはしないわよ」 その言葉に、マスタングは目を開けた。その漆黒の目をのぞきこみながら、コーディリアは続けた。 「あなただって、あんなに構ったりはしない。違う？」 女の瞳を見返しながら、マスタングはゆっくりと訊ねた。 「ただの子供、じゃなかったのか。あの子はこの方面に限っては、経験ゼロに等しいはずだが」 コーディリアはくすくすと笑った。 「耳年増ではあったようだけど。誰が教えたのかしらね」 そのいわんとすることを読みとって、マスタングは軽く抗議した。 「濡れ衣だ。私があの子にそんな話をしてみろ。ますますエロ大佐扱いされるだけだ」 「そう。確かに経験がないってのはわかったわよ。でも、普通の男の子なら、それを恥と感じて背伸びするものよ。あなたにも、覚えがあるでしょう？」 いわれて、マスタングもうなずいた。まだ少年だった頃。そして士官学校に入った頃。男ばかりの集団だったからなおのこと、どこまでそれを知っているか、ということが一つのステイタスだった。 「あの年頃の、特に男の子は、自分のことだけで頭が一杯になっているものよ。自分が女の子にどう見えているのか、とか、自分は世界にとって意味がある存在になれるのか、とか、とにかく自分自身のことだけで手一杯。でも、あの天使さんは……」 コーディリアはふっとため息をついた。 「たぶん、自分のことなんて、眼中にないのね」 なるほど、とマスタングは思った。 エドワードは、確かに自分自身のことなどどうでもいいのだろう。彼が必死になるのは、鎧になってしまった弟のこと、自分の大切な人のことばかりだ。自分の右腕と左足についてさえ、弟が気に病みさえしなければ、どうでもいいのに違いない。 「ああいう子に惚れると、つらいわよ、ロイ。愛している相手自身が自分自身を大切にしてくれないから」 しみじみとした述懐に、マスタングは女を見た。 「……私は、別にあの子に惚れてはいないが」 「そう？」 コーディリアは小首を傾げた。 「それならそういうことにしておいてもいいけれど」 「そういうことにしておいてくれ。抱くのなら君の方がずっといい」 「抱くと惚れるとは同じじゃないわ。それくらい、あなたもよくわかっているでしょう？」 その言葉に苦笑したマスタングの視線が、ふと窓に流れた。 漆黒の目が、一瞬だけ見開かれた。 （ロイ？） だが、コーディリアに視線を戻したときには、もういつもの完璧な情人の顔だった。 「すまないが、今夜はこれで失礼するよ」 上着を羽織り、寝台に歩み寄って、軽い接吻を贈る。コーディリアも引き留めはしなかった。 すがりつくべきときとそうすべきではないときぐらい、即座に見分けられなくてはこんな商売は務まらない。 かわりに、その頬に指を滑らせて、ゆっくりと囁いた。 「今度は、いつ逢おうかしら」 「また連絡してくれたらいい。ゆっくりできなくてすまないね」 そう微笑むと、マスタングは立ち去っていった。 その背後で扉が閉まると、コーディリアは立ち上がった。素肌にガウンを羽織っただけの姿で、マスタングが見下ろしていた窓辺に歩み寄る。 外は静かなイーストシティの夜更けだった。闇の中から音もなく、白い欠片が降りしきっている。 降り積もった雪が、あらゆる音を吸い込んでいく。 その中に、階下の門から男が駆けだしてきた。その先にいたものを見て、コーディリアは微笑んだ。 （やっぱり） 夜目にも鮮やかな金の髪の少年が、街角にぽつんとたたずんでいた。夜の中に取り残された光の欠片のように。 その側に一直線に駆け寄ると、男は一気に言葉を浴びせかけた。雪に吸い込まれて声は聞こえないが、何をいっているかはだいたいわかる。 こんな夜更けに何をしているだの、風邪を引くだの、どうせそんなところだろう。 もちろん、小さな少年の方もおとなしくしてはいなかった。可愛らしい顔を嫌そうにゆがめて盛大に言い返している。雪が降っていなければ近所迷惑間違いなし、遠目にも穏やかなやりとりではない。 そのうち業を煮やしたのか、男は実力行使に出た。自分のコートの中に小さな体を包み込む。あまりのことに硬直した少年の隙をついて問答無用で抱き上げた。 何しやがる、とばかりに少年はじたばたと暴れたが、男は悠然とその体を抱えたまま、楽しそうに雪の向こうに消えていった。 そこまで見届けて、コーディリアはゆっくりと窓にカーテンを下ろした。 「……あれで、どこが『惚れてはいないが』よ。まったく、自覚ゼロなのね」 そう肩をすくめると窓に背を向けた。 「もっとも」 美しい唇からぽつりとした呟きがもれた。 「そういう男に惚れてしまった女の方が、もっとつらいものだけど。女同士なら勝負もできるけど、天使が相手では勝ち目もないわ」 |
2004-12-21up